2021年9月の出来事について Part2

2021年9月の出来事についてPart2として書かせていただきます。

たしか、母が横浜市大から退院して、家に帰ってきたのが9月の上旬ごろでした。

前回は、にんじんジュースのお話しを書かせていただきましたが、今回は再び栄共済病院に入院するまでの経緯を書かせていただきます。

その経緯を理解していただくためには、まず先に長男である私について、少しだけお話しさせていただきます。

長男についてのお話し

長男である私は、いままで何度か西洋医学では治らないと言われた症状を、西洋医学以外の方法で奇跡的に治してきました。

それは、東洋医学、漢方薬だったり、あるいはヒーラーだったり国内トップクラスの超能力や霊能者の先生だったりなど様々です。

たとえば、足をひどく怪我して医者から「一生歩けない。足が治る方法はない」と言われ、他の医者からは「ボルトを足に組み込んで手術すれば助かる道はある。ただしやっと立てる程度。楽に歩けないし、一生走れない。」と言われました。さすがに足に大きなボルトを組み込むなど、私には受け入れられない話でした。

しかし、日本でトップクラスのカイロプラクティックとの先生との出会いで、「あなたの足は3カ月で治る」と言われました。

その後、見事にその通り、3カ月で治ったことは奇跡というべきでしょう。

このように、私は様々な試練に対して、いろいろな方法、あるいは皆様方のお陰で助けらてきた歴史があります。

この手の話は多くの経験をしているので、母を助けられる情報は、普通の人より多く持っており、いざというときは、あらゆる手段で母を助ける予定でした。

そして、それについては貴重な体験なのでここでは書ききれない程なのですが、そのひとつに、2015年のお話しがあります。

2015年の出来事

2015年の春ですが、私は様々なストレス等で胃の調子が良くなく、ストレスが重なり、一度に食べられる量が極端に減りました。

そこで、何をやっても改善しないので、このままだとマズイと思い、もともと西洋医学の薬が体に合わない私は、20年来お世話になっている国内トップクラスの神道系の霊能者であるS先生に相談しました。S先生のもとには多数の有名人が訪れ、北海道から沖縄からと様々な場所からわざわざ相談にくるほどの人気ぶりです。

この手の話は信じられない人もいるかもしれませんが、いままでS先生には何度も医者で治せない病気を治していただいていた実績が多数あります。20年間何かあればお世話になっていたので、まさに現実に起きている本当の話です。

しかし、このときにS先生に相談したときは多少食べられる量は改善したものの、大幅に食べられる量が改善したとは言えませんでした。

そして、帰り道に買った胃薬の漢方薬を家に帰って飲むと余計に悪化しました。

食べられるものがほとんどないので、栄養をとるために、大病院で点滴してもらいましたが、頭がしめつけられてしまい、体にとってマイナスになりました。また、点滴ではほとんど栄養は取れないことがわかりました。また、そこでは症状の改善は見込めませんでした。

そのため、そのときの点滴は体にマイナスでしかありませんでした。

後日、近所の個人医の医者に相談して、その医者からもらった薬を飲むと、さらに悪化します。

そして、ついに何も食べれない状態が2週間以上経過しました。

水とお茶は大丈夫、ジュースは受け付けない、受け付けるのは、その他に当時、超能力と鍼研究の第一人者のH先生(有名人)から教えていただいた酵母の原液やはちみつと、小指の爪の半分程度の梅干しだけでした。

これだけで過ごすわけですから、日に日に痩せてゆきます。

ついに、体がガリガリになり、普通に立てる状態ではなくなりました。

当時は、母が私の家に訪れては、私の状況が少しでも良くなるようにと願ってくれていました。

母が家にきたときは、私は起き上がれない程でしたので、ほとんど横たわった状態でした。

母はカトリック教会の人に「長男がいま大変な状況です。祈ってください」と頼んでいたようです。そこで、私のために祈ってくださった方もいらっしゃることを教えてもらいました。大変ありがたい話です。

母は相当私のことでイエスキリストやマリア様にお祈りを捧げていたようです。

医者からもらった薬はアレルギー的な状況を誘発し、胃だけでなく、食べ物を食べたら頭がしめつけられるという、2重の苦しみかのような状況でした。

西洋医学の医者では治せないし、2重の苦しみで、引田天功のマジックかのように、どう考えたって普通では生きて帰れない状況にまで私は追い込まれました。

そのとき、母は相当私のことで思い詰めていたようです。

私の身に奇跡が起きた。

日が経つにつれ、体力は衰え、ついに一度に5メートル歩くことが限界、普通に立っていることさえ容易ではなく、すぐに横たわらなければならないほどの状況になりました。

そして、あとおそらく2日で死ぬことがわかりました。なぜかわかるものです。

私はS先生に再び相談しました。

すると、「荒井さん!食べなければだめです!なんとかします。」とすごい真剣に私に答えてくれました。

そして、その日、遠隔治療を受けました。すると、ものすごいエネルギーとともに、その日のうちに、胃は治っていたのです。

普通は1時間の遠隔ですが、そのときはサービスしていただいたようで、1日中遠隔していただいたようです。なんと愛の溢れる先生でしょう。お金もらった分しか絶対遠隔しないという姿勢とは大違いです。

このサイトは母を追悼するサイトなので、私の話はこれ以上の詳細は割愛しますが、とにかく、凄い奇跡が私の身に起きて、私は生き返ることができたのです。

そのあと、薬によるアレルギー的な状況も回復できたのは、これまた奇跡としかいいようがなかったのです。

母は教会の人にこの真実を話したかはわかりません。しかし、そのとき母は私に「S先生のお陰で助かったことは信じる」と喜んで言っていたのは事実です。

母はさぞ私が助かったことを喜んでいたと思います。

2021年9月 母の出来事

母の食事について

再び母の話に戻ります。

2021年の9月、母が横浜市大を退院して、家で過ごしていましたが、母がすでに胃ガンであることは知らされていました。また、胃のほうが弱っているようでした。

私はガンではありませんのが、どうすればよいかを知っているので、とにかく母には忠告しました。

「ご飯系はおかゆだって避けたほうが良いよ、あとは人参とかジャガイモとかそういう硬いものは治るまで避けたほうが良い。絶対にそういうのはとらないで」「クッキーやビスケットなどがいい、これは実証済み」

胃が弱っているときは、柔かいものから、少しづつ硬い物に変えてゆけば良いわけだし、ゼリーや豆腐、バナナ、クッキー、そばなど、柔かいものは挙げればたくさんあるはずです。

しかし、母は私の忠告を理解したものの、しっかりと従おうとしませんでした。そこが母のよくないところなのです。私のいう通りにしていれば、歴史は大きく変わっていたかもしれないのに、平気で無視してしまうところが、母が自分の道を決めたといって間違いないと思っています。

母が助かる道がなかったのではなく、母に助かる道を示しても、その方法に徹底して向かおうとしなかったことが原因なのだと長男の私は理解しています。

いっぽうで、母はわたしのいう通りに人参ジュースは摂取していたので、それはプラスだったと思います。

母に起きた大きな出来事

母は胃を悪くして、弱っているにもかかわらず、「これくらいなら大丈夫だろう」という思いこみが非常に甘かったといえます。

普通の人と同じような感覚で食事をしようとしているのですから、まったく私には理解できません。

ある日の夜、母が突然、体の具合が悪くなり、次のように言いました。

「食事したら、具合が悪くなって、水さえ飲めなくなってしまった」

母は苦しそうにしていて、辛そうでした。

体の具合がよくないのであれば、多少安静にして様子を見るのも手かと思いますが、水さえ飲めないレベルというのはヤバい状況です。

いっこくも早く病院に向かうほうが良いと思いました。

よく見ると、なんと煮物を食べていたではありませんか。

鍋の中にある煮物をよく見ると、じゃがいも、にんじん、大根、こんにゃくなどがありましたが、それにプラスしてなんと「昆布」まであったのです!

これには、私も驚きました。昆布なんて、絶対に良くないはずなのに、胃が弱っているときに、昆布なんてご法度です。

「あれだけ忠告していたのに、なんで昆布なんて食べるんだよ! 煮物だって、今の母の体に良いわけない」と私は母に言いました。

その後、私はすぐに救急車で病院を探すように言ったのですが、母は「明日でいい」とかのんきなことを言っていて、私と口論したことを覚えています。結局、たしか病院に向かったと思います。

とりあえず、この事件をきっかけにして、母は栄共済病院の診察を受けて、入院することになりました。

「あれだけ忠告していたのに・・・」という思いが私の中にありました。「ほら言った通りだろうに」と。

それまで、母は一時期水さえ飲めなかった状況でしたが、それがどうやら改善して、水は飲めるようになったことを知り、その点については安心しました。

しかし、この事件をきっかけに、母は食べられる量が極端に減ったのは確かです。

栄共済に入院

母が入院してから、しばらく連絡をとっていませんでした。

なぜなら、私はその当時、携帯のメールが壊れており、メールはPCを使っていました。また、声を使うのを控える必要がありますので、電話もできず、母の状況はあまりよくわかりませんでした。

またきっと、いままで通り、元気で返ってくるだろう、という思いでしたが、いっぽうで「大丈夫だろうか?」という思いもありました。

私は母が入院して一番困ったことは、母をガンから助ける方法があるというのに、それを実現するためには、母に自宅にいてもらう必要があったということです。

まず、既存の西洋医学ガチガチとは違う、民間療法を取り入れた専門のクリニックを受けることが一番であると私は思っていました。

西洋医学では、ガンは助からないケースがほとんどで、ましてや末期の方が西洋医学で助かる見込みはほとんどゼロに近いといって良いでしょう。

私の知り合いの人でガンクリニックで患者さんのサポートをしていたこれまた優秀なヒーラーの女性Nさんがいるのですが、そのかたは、弟をガンで亡くしています。

よくその方は「抗がん剤は絶対にやめたほうがいい、抗がん剤で助からない人をたくさん見てきた」と言っていました。そのことを知っている私は、正直なんとしてでも、専門のクリニックに通ってもらうようにしたかったのです。

専門クリニックは凄いところがいくつかあります。たとえば、熱でガン細胞を壊したり、免疫を増やしてガン細胞を壊したりなど、様々です。しかし、いわゆる既存の西洋医学ガチガチ、教科書通りのことしかしない病院、お医者さんというのは、そういう画期的な療法を一切活用しません。

それでいて、そういう療法は、少なくとも西洋医学の成果と比較して、遥かに助かる成功率は高いと見受けます。

なので、なんとしても、民間療法を取り入れた、あるいは先進的な医療の専門クリニックを、母に受けてもらう必要がありました。

しかし、母が栄共済に入院してしまえば、そのチャンスはやってくるかわかりません。

ちょうど母にクリニックをすすめようと思っていた矢先ですので、この点については残念でした。

2021年9月の後半 母とメールができた

2021年9月の後半ですが、母とSMSでメールできることに気づき、急いでSMS経由でメールしました。

すると、入院先から母はメールを返してきました。

「医者から末期と診断された」

この言葉を知って、私は愕然としました。

もう末期なのか?という思いです。

あまりの突然に私は驚きとともに、「これは何とかしないと」と思いました。

それ以来、母が助かる道を、個人事業の仕事を置いておいて朝から晩まで探すことにしました。

まず、私がしなければならないことは、母を入院先から専門クリニックに通ってもらうことです。それを実現することが大きな課題でした。

入院先にお見舞いにゆくと、母と会話できました。そのとき、「病院から外出はできないと言われた」と言われたのを覚えています。

このことは私にとって大きなマイナスでした。

病院で初めて面会したときは、看護師さんが配慮してくれて、すぐ近くで会話することができました。

しかし、2回目以降は、違う看護師さんから「面会は5メートル以上離れた場所でないとできない」と言われ、だいぶ距離が離れたところから会話せざるを得ませんでした。

しかも、場所は病院の廊下で、私と母はお互いに車いすに乗りながらの会話です。会話は多少大声になりますので、周囲の看護師さんにもよくわかるような声量です。

私は声を出すと、喉がしめつけられてしまいますので、会話は控える必要があり、基本的には大声など言語道断です。

しかし、病院にその事情を説明しても受け入れてくれませんでした。人の健康を大切にするはずの病院が、なんて思いやりのない判断なのでしょうか。ルールが先なのはわかりますが、人の健康にマイナスを与えてまでルールを守る必要があるのか疑問です。

あるとき、私は面会で母に次のように言いました。「こんなところ、早く退院して自宅に帰ろうよ。そうすれば、いろいろな療法を受けることができる。そうすれば助かる道だってある」

しかし、母はこう言いました。「家に帰ったら死んでしまう。ここにいたほうがまだ良い」

私はこの話には疑問です。何かあったときにすぐに医者がかけつけられる体制を整えて、家で生活し、あとは専門クリニックに通院することが、母に残された道であることは確かです。

しかし、私がその道をすすめても、母は頑なにその道を変えようとしませんでした。このまま栄共済にいたところで、おそらく母は助からないであろうことは如実にわかることなのにです。

母は病院で出された一部の食事は口にすることができたようです。

たとえば、ゼリーやはちみつなどです。とはいえ、ごく限られた食事しか摂取できなかったようです。

私は過去の経験から、これは早いうちに食事をとれる体制をとる必要があることを理解しました。

そこで、とりあえず、母が入院している状態で、なんとか助かる道はないかと私は朝から晩まで、様々な療法を探すことにしました。

この後のことは、また後日書かせていただきます。

ちょうど1年前の出来事なので、ここから内容が多くなると思います。

ぜひ、この続きは改めてお待ちいただけますと幸いです。