実家に一時的に帰ってくる
2021年10月の出来事ですが、母は入院先の病院からの勧めでホスピスに転居することに決めました。ホスピスの場所は上大岡で、様々なホスピスの中から自分で決めたようです。
そこで、10月に入ってから程なくして、ホスピスへ引っ越しするために、途中経過地点として約1時間程度だけ実家に帰ってきました。
そのとき、母は教会の人の車に乗せていただいて、大量の荷物を携えて、家に帰ってきました。
久々に実家に帰ってきて、家の雰囲気が明るかったのを覚えています。やはり、母がいるのといないのとでは、家の雰囲気がまるで違います。
既に書いた通りですが、母は意外に元気でした。そして、母は「元気なのはフコイダンのお陰。フコイダンがなければ、ここまで元気でなかった」と何度も言っていて、喜んでいました。
入院先では、母はすでに食べれる量と食べ物の種類が限られており、ふつうのごはんやパンなどは受け付けず、ゼリーやはちみつなどを少量だけ食べれるのがようやくでした。フコイダンも1日で1包の1/2程度がようやくで、本来望ましいとされる量の10分の1以下でした。せめて1日5包程度摂取できていれば、状況は少し変わっていたかもしれません。そんな少量でさえ、フコイダンは母の元気の源として寄与してくれたようなので、摂取できていたこと自体は良かったといえそうです。
そのときの母は、食べれる量と食べものの種類が限られており、この状況であれば、ガンでなく、栄養失調で母が亡くなってしまう、早ければ10月中でこのままでは、せいぜいあと1~2か月という予測が私の中で立てられました。
しかし、家族はその点をあまり考えておらず、このまま1年程度生きていたら、という予測を立てていたりして、私は「なんて現状を把握できないのだろうか」と思いました。
なぜ、予測が立てられるかというと、過去の自分の状況に似ているからです。
私はガンではありませんが、2015年に胃の調子がわるく、あと少しであの世という直前まで食事ができず、そのあと奇跡的に生還できた経験がありますので、母の状況がよくわかるのです。
とにかく、食物であればなんでもいいので母が食べられるようにすること。そして、そのためには、ホスピスから先進的な医療機関を受診してもらう、あるいは先進的な民間医療を受けてもらうのが1番の道でした。
母は家に帰ってきて、自分の部屋にしばらくいて、なかなか出てきませんでした。おそらく、なごり惜しかったのでしょう。またかえってこれるように、そっと部屋で祈りを捧げていた可能性があります。
そして、部屋から出てきて、介護タクシーで上大岡に向かいました。
私としては、母が9月の入院中に「早く栄共済の退院を済ませてホスピスに転居して、そこからタクシーを使って先進的な医療機関に通って受診してもらう」という計画を立てていました。そのために、情報収集は徹底していました。末期がんから生還できそうな医療機関は東京に5か所程度あったことを覚えています。
たとえ大病院といえど、普通の医療機関であれば、治療といえばお決まりのワンパターンで、母は救われないことが分かっています。だからこそ、ホスピスをすすめられたといえます。しかし、世の中には普通の医療機関では治らない病気を治す、凄いところは探すとしっかりと存在しているのも事実ですし、ワンパターンの療法では治らない人が、しっかりと改善したり治ったりしている事実があります。
母は病院で入院先から一切外出できませんでしたので、ホスピスへの転居はある意味、待ちに待ったチャンスだったとえいます。
ホスピスに転居
母がホスピスに転居すると、まずホスピスの方とコンタクトを取りました。
そこで、まず先に1番確認したかったことが「入居者の外出」についてです。ここが大きなネックですので、ここさえクリアできれば、まずは一歩前進です。
そこで、確認すると、なんと返事は「外出は一切できません」と言われました。
私は残念でなりませんでした。あれだけ待ちに待ったホスピスなのに、外出できないなんて、それじゃぁ病院と変わらないじゃないかという思いです。
そこで、再び、食事療養や遠隔療法など、外出せずに受けられる方法を探しました。とにかくできることがあまりに限られています。
実は、ここには書いてないだけで、実際には非常に様々な民間療法などを試しています。しかし、母は食事や飲料で受け付けられる入れられる量が決まっているので、それさえハードルが高かったとえいます。
母には「ホスピス遠いし、外出できないから、外出できるところに変えない?このままだと助かる道はさらに遠ざかる」と言いました。しかし、母は「ここは自分が決めたことだから、このままでいい。今さら変えられない」と言いました。
母を助けようと10歩近づくと、100歩遠ざかり、1000歩近づくと、1万歩遠ざかる、そんな印象でした。いくら追いかけても、追いかけるスピードより遠ざかるスピードのほうがはやく、遠ざかる一方だった印象です。
とにかく、できることはやりつくすほどやってきたと言って良いと思います。